「非核」の意志

サッカーのことを書かなくてはいけないような思いこみがあったりするが、もともとそういう場所ではない。


原爆忌を迎えて、非核三原則の法制化を訴えた広島の首長に対する菅総理大臣の回答には絶望的なまでに政治感覚が欠如していた。


鳩山首相退陣以降、菅内閣発足、参院選での民主党後退という流れの中、サッカーにウツツをぬかしつつ過ごしていたが、ニュース、特に政治ネタは見る気がしなかった。消費税にまつわるドタバタを見るにつけ、菅直人という人は、生身の自分が総理大臣の器にぴったりと嵌るという思いこみが強すぎると感じていた。


現在、首相を取りまく環境は情報的に完全に無防備だろうと思う。別に今に始まったことではないだろうし、また初めて指摘されることでもない。国会答弁だけでなく、新聞記者にまで毎日「答弁」を求められる首相など、世界中のどこにいる。勢い、必要ないほどの質と量の情報が官邸周辺というより、首相本人から垂れ流されて、情報のコントロールなどできるような状態ではない。


もちろん、秘密主義になって情報が滞るのはよろしくないが、準備もないままに、不必要につつく機会をマスコミに与えて、必要ないほど傷つくのは、明らかに公共のためによくない。ここでマスコミのせいにしてはいけないだろう。


首相自身は必要なときに必要なだけ窓を開くだけで十分なのだ。その他は報道官がやればいい。


原爆忌の話に戻れば、今年、これだけ世界のメディアが注目している中、唯一の被爆国である日本の首相はこともあろうに日本のマスコミにのみ回答した。世界はおろか、日本の国民にも語りかけていないあの記者会見は一体なんなのだ?


この準備のなさに呆れてしまう。


「いいかね、記者諸君。私は首相なのだ。生身の自分が話せば、それは日本国総理大臣の言葉なのだ。中身など関係ない」


アメリカ大使が初めて原爆記念式典に出席するという、この絶好の機会を捉えて、アメリカをも納得させるような「非核」のスピーチを官邸主導で行うべきだったのだ。そんな言葉を菅首相がもっていないことは分かっている。自分でもおわかりなのだろう。


でも、「非核」への意志はないのか? 意志さえあれば、それを言葉に代えてくれる人を集めて、原稿にすればいい。「自分の言葉ではない」などというマスコミの批判は放っておいていい。


独り歩きするのは「悪い」言葉ばかりじゃない。いい言葉も独り歩きする。アメリカを納得させられなくても、日本の世論を見方につければいい。世界の世論を見方につければいい。今年はこんな書生論が空論ではなくなる可能性があったはずなのだ。