論説委員と女子アナ

 


今日はサッカー見てない。


このところ、Twitterを再開して、相変わらず政治・政局系の素人発言をくり返す。このブログと連動させているが、まあ、礼儀に適っているのかどうか、ちょっと不安な面もないではない。


それはそうと、民主党代表選の公開討論会なるものがあり、昼からそういうものにどっぷりと浸かりながらTwitter菅総理の情けなさはともかく、質問する新聞記者のレベルの低さに呆れること、しきり。しかも、礼節に欠けること、不快。


今日の公開討論会は日本記者クラブ主催だが、実質、政治部のトップが代表質問。読売=橋本、毎日=岸井、朝日=星。個人名で社説を書き、有名ニュース番組にコメンテーターとして頻繁に登場する人たちである。様子を文字で表現した方がいいのかもしれないが、映像を見ることができる便利な時代である。

http://www.videonews.com/press-club/0804/001534.php

記者クラブの問題というのは一年前に比べれば、急速に認知されてきていると思う。未だに「必要悪」と弁護する人はいないだろう。そういう話とは別に、新聞記者のあり方というのは、この先、変わっていくべきなのではないかと考えた。


彼らは自分がそれぞれの新聞を代表して質問しているという意識が非常に低い。購読者を代表しているということになれば、その意識はほぼ皆無であろう。簡単にいえば「俺の話を聞け」という調子で話している。


「私は朝日の星浩だ。大新聞朝日の看板しょってるんだ。報道ステーションにもよく出てる。さあ、答えてもらおうか」


彼のこの立場を担保しているのは、発行部数800万という世界有数の広告媒体である大新聞の存在である。彼の言論ではない。社内での彼の評価がどうなのかは知らない。大新聞の論説委員に収まったという事実はあるが、我々が知るのは彼が論説委員になってからのことで、その評価は必ずしも高くはない。少なくとも、今日の時点で、彼の株はかなり暴落している(興味のある方は8月末の署名の社説を参照のこと)。


朝日の星氏を例にしたが、読売の橋本氏、毎日の岸井氏にしても同じことだ。社内の評価だけで、大新聞の論説のトップについた。つまり、社員である。組織力を駆使した取材はフリーランスのジャーナリストには望むべくもない成果を短期間にあげられる可能性を期待させる。しかし、論説は取材力が重要だとしても、必ずしも組織力ではない。政治関係なら尚更である。


社員論説には大きな弊害がある。論説の内容に責任を問われないという点である。あるいは、責任を問われるような論説を書くことはできない、社益に反することは書けないということである。


新聞社が言論を担っているのであれば、これは非常に大きなマイナスである。簡単にいえば、「正義」を貫徹できないことがあるということである。下世話なことをいえば、広告収入に影響するようなことは書けない。


「メディア」という言葉は「媒介」という意味である。メディアそのものが意見を述べるということは本来、想定されていない。つまり、メディアである新聞社を体現する社員がそのメディアである新聞の紙面に自分の意見を載せるということはおかしいのである。TV局の女子アナが自分の意見をほぼ言わないのと同じである。


新聞記者一般のことをいっているのではない。論説のことをいっている。調査報道を新聞社が行うことはいいだろう。事実の積み上げである一定の客観性を達成すればよい。論説はそういう面に乏しい。敢えていえば、たいていは「感想」だ。


気の利いた感想ならいい。その人のライターとしての才能だ。しかし、社内で出世しただけでライターとしての才能を社外的に認めてもらっているという「自負」は不快であろう。日本の報道の現状が今のようであるなら、社内的に出世しただけという「自負」をもった上で、公の場に出る必要があるのではないかということだ。今後、「内的な」記者会見も公に動画で流される機会は増えていくだろうし。


さらに、まあ、望むべくもないことであろうと思われるが、論説に社外からの投稿を採用するというシステムを日本の大新聞もとるようにしたらいいのではないかと思うが、これは蛇足。




こういうことが気になって、今日は一日、仕事にならず。人の文章を手直しする仕事は気が塞ぐ。