キリエ・エレイソン

エーディト・シュタインという修道女について書いた論文を読んでいる。この女性は現象学者のフッサールの弟子で、修道名は十字架のテレジア・ベネディクタ。論文は「十字架の聖ヨハネ」という跣足カルメル修道会の神秘思想家の研究などを中心とした話。


その話と直接関わったりはしないのだが、キリスト教信仰と「神秘」などということについて考えたりすると、まあ、現代的なカルトチックな話はともかくとして、不思議に思うことはある。それを神秘と言えるのかどうかは別である。どちらかというと、「シニカルな神秘」。


ん? 矛盾してるか?


要は「どうしてこの人は牧師になったんだろう」と思うような人と、30分ほど、その人のためにつくる「名刺」の相談をしたのだが、その30分が非常にストレスを感じる時間であったという話である。


その人は牧師ではあるけれど、教会をもっているわけではなく、あるキリスト教の団体を長い間、取り仕切っている。歳は60代後半。初対面の当方に「こんにちわ」でも「どうぞよろしく」でもなく、もっていった名刺のデザインに文句をつけ、部下たちの悪口を言う。


「劣等感の塊のような人だ」と、その人の部屋を出てから思った。同じような人のことを帰りの電車の中で思い出した。歳は少し若いが、やはり牧師の資格を持ちながら、教会では働かず、キリスト教系の団体のトップを勤めている。


共通するのは、あからさまな劣等感と、その裏返しと思われるややヒステリックな攻撃性だろうか。こんなことが少し接しただけでわかってしまうのも共通してる。こちらの思いこみではなく、そういう人はいるのだ。それがストレスの原因のひとつだったのだろう。そういう人と接することなく一生を終えることができる人は幸いである。


あの人は悩める人を神のもとに導こうと思うことがあるのだろうか? 


牧師になったのだから、そうなのだろう・・・というのは浅はかな考えである。そう思ったことがなくとも、牧師になる人はなるのである。それが「信仰の神秘」というものだ。


「ああ、私は牧師になります」と神に身を捧げる決意をした人が、人びとを上手に導くとは限らない。でも、牧師にはなる。


そして、かの二人は教会で日々信徒と接する牧師とはならなかった。


シュタインの論文と絡めながら、こんなところに神の恵みの偉大さ、信仰の神秘を見つけたということにして、少しだけストレスは解消された。