記者クラブ問題と突破力

 

新内閣発足に関する記者会見への入場が制限されたこと、入れても質問を許可されなかったことへの批判は「記者クラブ」にチャンネルを合わせた人には行き渡っており、それを「公約違反」という人も多い。これをもって「民主党には失望した」という人も多い。


民主党が開放を公約していたかどうか知らないが、開放がされないことを公約違反だということにはあまり意味がない。記者クラブ開放の問題は、決して政権批判の材料ではないのである。


政治家と官僚との癒着は自浄作用による解決が望めないということの結末が今回の政権交代と見ることができるが、それは選挙という国民の判断を経て初めて可能になった。三権分立という制度の中に本来組み込まれている仕組みと言えないこともない。それが日本で初めて機能したというのが画期的だと騒いでいるのだと思う。


記者クラブの問題は単なるフリージャーナリストの不満という問題ではない。大きな権力をもつ大手新聞社をはじめとする報道機関と政治家、官僚との癒着が国民の知る権利を阻害しているというのが問題の核心である。自浄作用を求めることはできないらしい。


かといって、公的な選挙によってこの癒着を解決するという仕組みはない。講読拒否による圧力は事実上の独占市場を形成している大手マスコミには効果がない。ネットジャーナリズムがそれに風穴をあけつつある、というのは確かなのだろうけれど、民主党の菅さんがかつて薬害エイズの問題で厚生省とやり合って勝利したというような個別的なことで、そのものとしては風穴以上のものにはなりにくい。


総選挙のような突破が必要なのである。民主党政権への政権交代でこの問題が解決すると期待されたのは公約であったからかどうかは別として、その突破力への期待のためであろう。しかし、総選挙による政権交代が万能であるわけはない。況してや、マスコミは国の制度の中に規定されてはいない。


ネットジャーナリズムは個別の問題についての情報を得やすいものにしてくれた。たとえば「記者クラブ」の問題が気になった人はネットを通して、「ネット以前」には想像もできないほどの量の情報を手にすることができる。しかし、「記者クラブ問題」そのものを関心のない人にも広げる力はそれほど大きくない。チャンネルを合わせてくれなければ情報は届けられないのである。それがテレビとの大きな違いといえる。


チャンネルを合わせてネットを見ていると、すごい問題になっているかのように錯覚する。なのに世間は無関心。問題は問題だけど、関心は広がっているわけではない。記者クラブの問題に限らず。


テレビ報道は関心は広げるけど、問題は失われている。酒井法子、社会的な問題という視点からすれば、彼女は被害者という側面もあるんだから、彼女個人はすでに社会的な問題ではない。でも、みんな保釈には関心をもっている。


彼女に反省の色が見えるかどうかなんてどうでもいいじゃない? 笑顔を見せたら、また覚醒剤をやるに違いないってことになる? 記者会見で原稿をちらちら見たから、心から反省はしてない、また覚醒剤やるに違いないってことになる? 


脱線しました。別に、ノリピーファンじゃないですが。


上杉隆さん、さっき、昼の大和田獏さんの番組に出演してましたが、「記者クラブ問題」を常に言いつのるわけにも参りません。最後にちらっと仄めかしていましたが。


記者クラブの問題にはやはり、もう一段の突破が必要です。政権交代だけでは足りない。世論、テレビでのブレイクが必要です。


それにはやはり、ビートたけしの力が必要。


くどいようですが。