猫を抱いていなかった

仕事の帰り、電車の中で本を読む。川上弘美『溺レる』。


短編集である。何か居心地の悪い感じで読んでいた。こういうのを相性が悪いというのだろうか。文章のまずさでこういうことは感じたことはあるが、川上さんの文章を云々する必要は感じない。どうも、この、性描写が合わないらしい。妙に頻出するし。


女の作家は基本的にあまり読まないのだが、特に理由があるわけでもないので、読んでみようと思って、Bookoffで手に取ったのは小川洋子だったのだが、どういうわけか、川上弘美もセットになっているように当方の頭が了解しているらしく、ついでに買ったのが『センセイの鞄』と『溺レる』。


センセイの鞄』は比較的すぐに読んだ。小泉今日子だかが演じたりしたせいかもしれない。川上弘美が中年男性に妙に受けているなんていう記事も読んだ。まあ、こちらも中年と言えば中年だが、おっさんの願望だとか、あんな話にやられちゃって情けないとか、(読者に対して)批判的な感じの記事。で、『溺レる』は結構長いこと本棚の上に積んであった。


『溺レる』には『センセイの鞄』と似たような話がたくさんある。まあ、『センセイの鞄』がその集大成という感じなのかもしれない。あの独特な感じを「空気感」などとWikipediaは解説してくれたりする。


Wikipediaというのはまあ便利なものだ。川上さん、年下だとばかり思っていたら、当方よりもかなり年上。出てくる女性が若く感じるせいなんだろうか。合わないのは芥川賞のせいではないかと調べてみたら、小川洋子もとっているのだな。90年代の出来事には疎い。


出てくる女性が若いように感じる、というのがポイントなんであった。それと相手がたいてい、おじさんであること。つまり、なんとはなしに年齢差が想定されているようなイメージが川上弘美の小説にはある。


ここで、話はポンと飛ぶ。地下鉄が地上に上り、ふと本から目を離して、街灯がついた町の景色を見た時、頭に浮かんだのは


「猫を抱いてなかった」(『スローなブギにしてくれ』)


という科白の映画のシーン。ラスト近くだったと思う。浅野温子演ずるところの若い女との一件のあと、別の女と車で海に落ちたという場面で、毛布にくるまった山崎努が言うのだ。


一緒に落ちた女が生きていたのかどうかは覚えていないが、とにかくその女のことは全く語られない。ただ「猫を抱いてなかった」だけである。山崎努演ずるところの中年男は「猫を抱いていた」浅野温子のような若い女ともう一度・・・と思っているというのがあのシーンの意味のひとつにあるのだろうとは思う。


でもね、違うんだ。ああ、別に違わなくてもいいんだけど、あのシーンを思い出した時、「なんで猫を抱いてないのに出てきやがったんだ」と山崎さんは思っていると、こちらは了解するのである。


それは猫を抱いているかどうか見極められなくなってしまった男の姿なんであるけれども、猫を抱いていない女は出てこないはずの物語に抱いていない女が出てきてしまった。だから、その女は画面には登場しない。表現する必要がないからだ。


ここで「猫を抱いている」というのはもちろん象徴的にそういっているわけですが、「猫を抱いている」話の中に抱いていない人が出て来ることほど、不細工な話はない。


でね、川上さんの小説に出てくる女性はね、「猫を抱いている」んです。性描写はこちらの好みには合わないけど、みんな「猫を抱いて」ますから、小説に出てきてもびっくりしません。そういう女性が次々に登場する短編小説集の中にそうでない人が紛れ込んだら・・・・・物語は破綻する。「空気感」という表現はその点で合っているかもしれない。KYという言葉も一方にはありますが。


「猫を抱いている」女性が次々に出てくる小説を読みながら、「猫を抱いてない」のになんで出てきやがったんだ、と言いたくなる出来事のことを思い出してしまったという、私的なお話でした。