憎しみの行方


何の気はなしにテレビを見ていると、NHKの深夜番組。黒木瞳が『ママさんバレーでつかまえて』なんてコメディ番組をやっていた。NHKの深夜は変な番組が多くなっているような気がする。特に一生懸命見ているわけではないですが。


この前もやはり何の気なしに付きっぱなしになっていたテレビを見ていると、NHKにいきなりさだまさしが出てきて、ナマ番組を始めた。深夜に京都の龍谷大学で。ラジオのディスクジョッキーをテレビでやっていた。視聴者からのはがきを読んで、昼間に行ってきた場所をレポートして……。毎月最終日曜日の深夜にやっているらしい。


話は飛びますが、来年の大河ドラマ坂本龍馬だそうで、龍馬を福山雅治が演じる。その福山「龍馬」が深夜の番組宣伝のフイルムの中で


「憎しみは何も生まない」


というようなことを言っていた。憎しみ合って争って疲れ果ててしまうより、協力して何かをなしとげようという、まあ、薩長同盟の文脈での科白なんだろうと思います。


そうなんですがね、「ああ、憎しみは何も生まないから、ダメなんだ」という話に勝手にすり替えて妙に納得してしまった。


ある出来事に対する感情を整理しようと、その出来事から何かを生み出すことで、その出来事の収まりをよくしようと思っていた。そうすれば、うまくその出来事をやり過ごせるだろう、と。


苦しさや悲しさはある程度、美しい物語に変えることもできる。逃避ではあるが、そうやって記憶の中に整理しないとなかなか先には進めないものだ。そうやって、ある出来事を整理しようとしていたのだが、なかなかそれができない。


その出来事には思っていたよりも「憎しみ」が詰め込まれていた。


それに気づかされたということなんだろう。「憎しみ」というものはどうやらそのまま残ってしまうもののようだ。「憎しみ」そのものからは何も生まれない、と言われてみれば、そうであるように思う。和解の時を迎えることなく、放り出されてしまった「憎しみ」はなかなか厄介。


福山さんの科白を聞いたのが昨晩のこと。それ以来、その出来事を「憎しみ」という文脈で見るようになっている。いままではあまりそういう点を見ていなかった。見ないようにしていたのではないと思う。別の人が発した「憎しみ」はどこかにおいておくしかないということだな。それを何とかしようとしてもだめなんだ。こちらが発した「憎しみ」も当然あるのだろうけど、それはまた別の話。


前回の「猫を抱いている」話といい、これはある種の「自己セラピー」なんであろうか。そういうものがあるとして。文章を書くのがセラピーになるという人がいるという話は聞いたことがありますが。