Twitter と記者クラブ開放


どうもツイッターなんてものを始めてしまって、別にぶつぶつ言ったりはほとんどしないんですが、昨日2月3日は「女性秘書『監禁』取調」報道で週刊朝日の編集長が検察に呼びつけられたとかなんとかで、大変な騒ぎになっておりました。


ガセネタだなんだといわれながら、いろいろな情報が飛び交う、あのスピードはある種、恐ろしい感じもしたけれど、しばらく追っかけていられれば、自ずとどの辺で理解しておけばいいのかは見えてくる。もちろん、この場合、当事者が直接に情報を発信している部分がある程度あり、それに直接アクセスしているという信頼がなければならないけど。


まあ、そこに信頼がなければ、何もここまでツイッターにみんなが注目するはずがない。推測だけで交流しているのであれば、匿名、言いっぱなしの2ちゃんねると大差はない(2ちゃんねるにも真面目なのもあるんだろうと思いますが)。


行き過ぎの勘ぐり、諫言、疑念が飛び交う中で、自分の立つべき位置を見極めていかなくてはいけないわけですね。


そういう情報の氾濫を整理して提供してくれるのが大マスコミであるというのが、今までの図式であって、「自分で判断なんかしたくないよ」と思っている人、また、「普通の人にはそういう判断はできない。上の人(大マスコミ)が導いてあげなければ」と考える人は「記者クラブは必要」という主張を展開いたします。


一方、「そういう情報の選別は受け手に任せませんか」というのが記者クラブ開放派の主張ですね。つまり、社会の成熟への信頼度で意見が分かれるのだろうと思います。だから、どっちが正しいという議論は成り立たない。「もう大丈夫」と「まだだめ」の対立でしかないから。


ツイッターなんてもので情報を得ようとしている人は基本的に「大丈夫」な人たちが大半なんだろうと思います。でも、大マスコミが主導する情報の流れに乗っているテレビの情報に接している人が「まだだめ」な人たちばかりかというと、そんなことはないですね。


「説明が不十分」なんていう言葉が小沢さん、鳩山さんに向けられているけど、情報の流れが一本で、理解を形成するだけの情報が足りないということもあるように思います。理解は直接的な説明だけで形成されるのではないでしょう。


「情報の氾濫」は確かに辛いです。記者クラブ開放には情報の多系化に対処する覚悟が必要といえば、そうなんですが、氾濫する情報をフィルターにかける役割をすでに大マスコミは果たせなくなっているのではないか、というのが、もうひとつ先の論点なんだろうと思います。


この数日、ツイッターなどを通して、そのフィルターが官僚のお仕着せであることがあまりにもあからさまになっているのを何度か実感してしまった。この実感は大きいだろうと思う。


ツイッターをやっている人すべてが同じ感想をもつわけはないけれど、そういう実感をもって、テレビを見ていると、テレビで話している人もそういう実感をもってテレビを見ている人が多くなっているのだと思い始めているように感じられた。ここ数日のこと。


大マスコミの情報以外の情報、意見が氾濫し始めていることを意識しないと、話が陳腐になる。陳腐な話をする人がテレビの画面から排除されるのは驚くほど早い。それをテレビで生きてきた人は知っているのだろう。今までもそうしたズレを修正しながらうまくやってきたのだろうと思うけど、この先、微調整では済まないくらいの情報の格差が生じる可能性があるのではないだろうか。


この手の変化はゆっくりと進行するのだろうと思います。少なくとも一日にしてということはないだろうと思います。仮に記者クラブ開放の決断がどこかで下ったとしても、「はい、それでは今日からはこのルールで」ということにはならないはず。


でも、より現実的なのは、記者クラブ開放なんてものが全く無意味になるほど、情報が氾濫し始めるということかもしれない。その時には大マスコミが交通整理の役割を果たそうとするのだろうけど、今までのようにはいかないだろうな。どうなるのかは想像がつかない。


もしかしたら、こういうことの最初の例がこの数日のうちに見ることができるかもしれない。


もしかしたら、記憶されるべき日々になるかも。