「政権批判」ということ

 
国会が閉会に向かって、時間を消費していくなか、「国会軽視」云々の野党による批判。「野党」の常套句。そもそも国会が重視されたことがあるのだろうかという根本的な疑問が生じてくる。どうなれば国会じゅうしなのだろう。そういう政治文化をつくってしまったことへの反省なしには、こうした儀式的な成り行きに対して、多数の人が共感するときは来ないだろうと思う。


新大臣の「事務所費」問題のばかばかしさは、市役所の受付係が書類の不備を指摘しているようなものだったが、それにつづいて、公設秘書のスキャンダル報道。マスコミのイメージ報道戦略があまりにもあからさまになれば、一般の人びともそれに気づくだろう。


改選を控えている注目の人、蓮舫氏をターゲットに、できるだけ減点材料を提示しておこうという戦術であるのはよくわかる。事務所費の問題、公設秘書のスキャンダルが同じその文脈にあるのは明らか。マスコミの一部が些細なことでも醜聞をかき集めている。被害届の出ていない事件を新聞記者が嗅ぎつける。このタイミングでそんな都合のいい話があるものか。警察と記者が結託して、民主党関係者の醜聞をかき集めていると疑う人が増えるであろうことは目に見えている。ただでさえ、記者クラブのことで行政とマスメディアの癒着が疑われているのに。


そして、その尻馬に乗って、批判を繰り広げる野党。批判のテクニックがあまりにも稚拙なのは、社会党が長年にわたって築き上げた政治的な批判の貧しさを継承しているから。耳目を集めることを持ち出して、批判の力を底上げしようというのはよくある手法だろうが、「はやぶさ」の成功と多くの人びとがそれに関心をもったことを引き合いに、宇宙事業を「仕分け」したことを批判し、事業仕分けの「失敗を認めよ」とがなり立てる自民党議員の姿は、ただただ醜かった。醜悪であった。


政権批判というのは絶対的に正しく、「政権批判を批判することはいけないこと」というような風潮がある。マスコミは中立の立場を偽装するが、政権をはっきりと支持することだけはしてはいけない。それがマスコミというものだ。支持すれば、「御用新聞」のレッテルを貼られる。実際には「官僚御用達」であることは明らかになりつつあるけれど、現在でも「裸の王様」を地でいっている。大政翼賛的な報道をくり返した第2次大戦時代の反省からなんだろうと推測はするけれど、トラウマでしかないようにも思われる。


似たような報道批判、野党批判はあちこちで見られるわけだが、当方が考えているのは、こういう批判をしている自分のこと。当方はとりあえず現政権を支持しているが、積極的な民主党支持者ではない。「アンチ巨人であるがゆえの阪神ファン」のようなものである。阪神のことは余りよく知らないが、巨人・阪神戦ではとりあえず、阪神を応援する。ある年齢以上の男性にはわかっていただける比喩であろうと思われる。


権力に対する批判的な態度というのは大切なことで、それは自分の支持する勢力が政権を握っている場合でも同様に言えることなんだろうと思われる。しかし、今回のような政権批判に反感を感じてしまっていることをどのように納得したらいいだろうか。今回はあまりにも陳腐で稚拙な批判であったが、「かつての敵」である自民党からの批判は、かつて敵であったが故に無条件に却下というのは好ましい判断ではない。


問題は政権交代の捉え方なのだ。去年の総選挙は、初めて自民党以外の政党が「勝つ」という動詞の主語となった。ポイントは「勝った」という感覚の処理の仕方にあるのではないかと思うのだが、この話題はまた後日。