敗者の美学

 


旧知の方に「引っ込んでばかりいないで、たまには東京に出てこい」と言われ、のこのこと出かけていって、さんざん御馳走になる。ベルギーのビール、Hoegaarden などなど。なんかオレンジの香りがするのだが、あれは酵母の匂いだと言う。


「準決勝の日ではないか」と気にならなかったわけではない。まさか夜通し飲むようなことはなく、12時過ぎには帰還。こういうことは実に久しぶり。さて、3時半までの数時間、起きていられるか? 


というわけで、シャワーを浴びた。何か書いていれば時間はすぐに過ぎていく。


シャワーを浴びて、汗が引くまで、日本代表について、今後の日本サッカーについて、いろいろ言われていることについてなど考えてみた。「日本代表とは、どういうチームであるべきか」などという設問に対して、なにか意見があるわけでは全くない。守備的であるとか、攻撃的であるとか、そういうことは言えば言えるのだろうけど、W杯ファンとしては「日本代表が勝つのもおもしろい」という程度なのである。


今回の大会で「日本代表のあるべき姿が見えてきた」なんてことが頻りに言われたりする。それが何なのかよくわかっているわけではないが、そうなのかもしれない。しかし、次の監督がどう考えるかで4年後のチームの形は決まるのである。多くの人が議論してどういう考えをまとめようが関係ない。「ロナウジーニョは外す」と監督がいえば、そうなるのである。


もし再開されるJリーグを見た次期監督がクローゼ並みの貪欲なゴールへの嗅覚をもつストライカーを見出し、その新人を育てた上で、4年後に向けた戦いをすると決めたら、サッカーファンが議論の末まとめ上げた「日本らしいチーム」などというものは何処かへ吹き飛んでしまう。そして、その代表が勝ち進めば、すべては肯定される。


もちろん極端な譬えであろう。その監督の戦略が失敗して解任され、たとえば岡田監督が再登板して、チームを立て直す。でも、それを「おお、これぞ日本代表らしい日本代表だ」とみんなが評価するかどうかはわからない。負ければ手のひらを返すのは目に見えている。


どういうチームを望むのか? 当然のことながら、勝つチームである。最初から「いい試合」をするチームを求めるファンなどいない。負けた「いい試合」より勝った試合の方がいいに決まっている。もちろん、「勝ち方」はあるが、それは「勝つ」ことがまず前提になる。


届くはずなんかないと言われていた決勝Tに堂々と進んで、惜しくも負ければ「いい試合」であろう。しかし、この先たとえば12年3大会、つづけて同じように悠々と決勝Tに進んで、同じように惜しくも負けたとする。もはや「いい試合」などと誉める人はいないだろう。


サムライ・ブルー」などという「愛称」をマスコミは叫ぶけれど、パラグアイ戦の評価として「錆びた刀」くらいの皮肉は出ていてもよかった。根本的には「刀をもたない侍」であっただろうと思うけど。外国のメディアは弱小国が善戦すれば基本的には誉めてくれる。的確な批判ができるのは国内のメディアだけ。時に行きすぎはあるにせよ。


戦いに破れて帰国する選手に罵声を浴びせるというメンタリティは日本人にはない。どんなに酷い負け方をしても、猿まねでトマトや卵を投げつければ、一般の人は反感を抱く。まあ、不貞腐れて全員、腰パン、サングラスで帰国したらわからないが。


選手を労う気持ちと、試合内容は別ということだ。努力しても失敗してしまった人に失敗の原因を指摘した上で「次を目指せ」ということだ。しかし、「負けたけど、がんばったね」が日本人には染みついているのかもしれない。甲子園のせいか? 


こう書いてはいるけど、「ベスト4なんて何十年経っても無理」なんて全く思わない。ワールドカップだもの。その時は堅いことを言わずに素直に喜ぶつもりだ。「こんなことは2度とない!」とばかりに。


FIFAランキングのトップ4はまず無理だと思うけどね。


さて、「ドイツと日本」という文脈で、「ドイツの強さ」について考えてみたりするのだけど、ちょっとダラダラしすぎなので、またの機会に。